Thursday, November 28, 2013

More Important Than Life いのちより大切なもの


いのちが一番大切だと、思っていたころ
生きるのが苦しかった
いのちより大切なものがあると知った日
生きるのが嬉しかった。(*) 
 
「いのち」よりも大切なものが、この世に存在するのでしょうか、そんな驚きと関心を、この詩は読者に呼び起こしてくれます。この詩を書いた星野富弘さんは「花の詩人」と呼ばれ、口に筆を加えて、花の絵と詩を書かれます。元々、体育教師で、器械運動の模範演技をしていた際に、運悪く転落し、肩より下は全身麻痺という障害を負われました。それ以来、想像できないような悩みと葛藤を通り、また長い訓練の末、口に筆をくわえて自己を表現するという道を見出してゆかれます。こうした作者の背景を理解すると、この詩がより深い意味を帯びて来ます。体育系の青年であった彼が、この障害を受容するのは並大抵なことではなかっただろうと思います。彼にとっての「いのち」は、やはりかつての「健康の身体、動き回ることの出来る自由」ではないかと思われてならないのです。でも、この詩は語っています。「いのち」よりも大切なものを発見したことで、心の中に価値観の転換が起こり、自分の障害を受容する余裕ができたのだと。

星野さんは闘病中に、クリスチャンの方々の訪問を通して、また自ら聖書を読む中で、信仰に目が開かれてゆきます。彼の著書「愛、深き淵より」を読むと、聖書の「労する者、重荷を負う者、我に来たれ」の有名な言葉によって、信仰に導かれたことが分かります。自分の痛み、苦しみを自分のことのように共感し、共に担って下さる方、イエス・キリストのところに行って心に平安がえられたのです。逆に、彼には障害があったからこそ、「いのち」よりも大切なものに出会えたとも言えるでしょう。

私達も星野さん程ではないと思いますが、障害と思えるもの-それが自分の弱さ・限界だったり、他人だったり、状況だったりする-を抱えて生きているのではないでしょうか。しかし、星野さんのように、私達もまたこの「いのち」に触れると、この障害を受容してゆく力が与えられ、場合によっては、それが新たな力の源泉になってゆく可能性さえあると思います。

この「いのち」はイエス様の許にあります。2千年前に馬小屋で生まれた方は、この「いのち」を私達に与える為に、この地上に来られたのです。商業化されたクリスマス、世の人々が忙しさと喧噪の中で過ごすクリスマス。そんな中で、今年こそ教会にきて、じっくりとこの「いのち」について考える、触れてみる機会としませんか。皆さんに、少しでもイエス様のことを知って欲しいと思います。

                         *星野富弘、「いのちより大切なもの」(いのちのことば社、2012)より 

Friday, November 15, 2013

Share the Good News 福音を伝えよう

「しかし、聖霊があなたがたに臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤ、サマリヤの全土、および地の果てまで、わたしの証人となります。」
使徒の働き1:8

イエス様がオリーブ山から天に戻られる時に、弟子たちに伝えられたことばです。イエス様の地上での最期のことばということは、「遺言」であるとも考えられる、それほどに重みのあることばなのです。

この命令に動かされ、最初の弟子達はエルサレムから小アジア、ヨーロッパ全域へ、更に過去二千年の歴史を通して、代々の忠実なクリスチャン達によって、世界中に福音が宣べ伝えられ、日本にも届けられてきました。

あなたはどのようにして福音を聴いたでしょうか。自分一人で祈っていて、あるいは聖書を読んでいて、自然に信じることができたという人に、私は今まで出会ったことがありません。誰かから、何らかの形で「福音」を伝え聞いたのです。イエス様の直弟子からあなたの所まで、長い時間と数多くの人々を経て、バトンタッチされてきた「福音」=「良き訪れ」は、今度はあなたによって伝えられていく必要があるのです。もしも、地球上の全てのクリスチャンが黙してしまうとしたら、これから数十年後に、この地上にイエス様を信じる人は一人もいなくなってしまうでしょう。

イエス様を三度も知らないと否定したペテロ、その彼を通して、福音は伝えられたのです。復活したイエス様に出会い、愛され、取り扱われたペテロ、そして聖霊を受けたペテロは、力強い主の証人と変えられたのです。同じように、主は弱く、欠けのある私たちをも用いようとされています。確かに、聖霊が臨まれる時、私達は力を受けるのです。聖霊の力を受けて、大胆に福音を宣べ伝えていきたいと思います。